美女は、7/7/2017 からお休みです。
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1995年?頃、下のような原
(リョウ=寮からウ冠を取去った文字・以下「HR」と記す)のエッセイが新聞に連載されたことがあった。
上の (これも)は画像で、ォ←これは、imeで出した文字(カーソル(ポインタ)の違いが判る?)。機種依存文字で文字化けしている?
本来、「娯楽」→「ミステリ」項にはいるべき。         詳しく「HR」については、        
  上右の略歴を参照すると、HRがリバーサイドに通い始めた 高校1年は1962年ということになる。同じ年には大学4年であった私も、部活の連中に知られるように、 リバーサイドには行かない日のほうが数えるほどになっていたのは後述のとおりである。
  私の記憶によれば、この年リバーサイドは様変わりした。経営者が交代したのである。昼間カウンター内にいて ディスク(当時はディスクなどとは言わなかった、レコードであるが)に針を落として(当時オートのプレーヤーも出回ってはいたが、 (ツウ)からは認められていなかった)いたベテランのオーナーママに替わり、どこかのカフェかレストランにでも勤めていたらしい カウンターウーマンが来た。
  代替わり後も暫く続けていた寺本というウェイトレスもやがて辞め、昼夜二交代制の後半を受け持つカウンターには引き続き 栗山という、上で HR 呼ぶところのマスターは残ったが、11時前の開店から5時過ぎまでの前半を担当した新米の彼女が、 当時約350枚程置かれていたと思う3段のディスク棚から客のリクエストに応じたものを抜き出す仕業というものは、 客が常連であれば今までの記憶からおよその在処を助言してもらえるが、そうでなければ雲を掴むようなもので、片端から引っぱり出しては、 全く耳に馴染んでないプレイヤーとタイトルを確認する訳で、結局要領を得ずリクエストが叶わないまま、 コーヒーを啜る客が増えることとなった。
  この年大学4年となり、卒論等で時間の切り割りが比較的自由になった私は、11時前、ウェイトレスが店内の掃除を終え 最後のチリを階段から地上へ(リバーサイドは直階段を昇った2階にあった)掃き落としている時間に合わせるかのごとく 毎日到着するようになった。当時週日は毎日、日祭日も3回に1回は顔を出し、従業員の昼夜交代時に合わせて店を後にする日課が4・5ヶ月続いた。
  上に HR が記している、休業というのはおそらくこの経営者交代期のことであると思われる。私は毎日ディスク棚の前の カウンター(1台で賄っているため風量・風速甚だ大であり、19度Cに温度設定された冷房機の吹き出し口直前というこの席で毎日6時間 鍛えあげたお陰で、現在冷房病などいうものには全く無縁の身体となった)に陣取り、ひたすら客のリクエストに応じ取り出される ディスクの収納位置を頭に入れていった(ディスクは前のオーナーのときから、プレーヤーのアルファベット順に並べられていた)。 続いて、誰のなにそれと曲目をリクエストする客に合わせて、各ディスクの収録ナンバーを覚えた。
  1・2ヶ月もすると殆どのタイトルまで頭に入り、店員に客のリクエストをディスクの在処ごと教えられるようになり、 さらに1・2ヶ月で録音日時・場所、タイトルを特定したリクエストに対し、「それは置いてない」と答えられるようになった。 つまり「在る」タイトルはすべて頭に入れて、棚のどの位置にどのジャケットに入れられて納まっているかが言えるようになったという訳である。
  コーヒー1杯、ときには半日分の食事としてトースト&ミルクを追加注文するだけで長時間ねばる私も、 とても満員にはなりっこない日常もこちらには幸いして、店からは大変重宝がられた(筈である)。
  ところで、同時期これだけ頻繁に同じ店に通い詰めた2人がお互いを認識していたかというと、それらしき思いはまったくない。 当時の男客として思い浮かぶのはただ一人私よりずっと若そうな常連客がいたが、その童顔を想像で成長させてもHRとは骨格が違うようだし、 上のエッセイによるとHRは常連客らとの交歓を楽しんだとあるが、件の若者が他と話しこんでいる姿を思い浮かべるのは難く、 彼がHRとは考えがたい。
  顔を合わしていればたとえ相手が男であるとはいえ、店員以上に常連客を気にしていた私が、 このような頻度で顔を出している客を意識しないわけはない。これは私が昼の部、HRが夜の部の客であったため顔を合わせたことはなかった、 或いはごく稀であったというのが真相であろう。
  同じく大学卒業後即上京の私は HR と違い、さすがに勤務をやりくりして昼間に出掛けるわけにはいかず夜の部に 鞍替えせざるを得なかったが、退社後勤務地の東京から新宿の「DIG」偶に「ヨット」を廻って下宿先赤羽へと戻る日が続いた。
  もちろんこの頃は リバーサイド時代とは大違いで、発売レコード数の増加も目覚ましいものがありまた、 安心して聴けた(という表現もおかしいが)ハードバップ・モードを経て、マイルス・コルトレーンが行き詰まりの悪あがき (とは当時言われてなかった。巨頭に対しては、リアルタイムで負の評価を下せる評論家もいないということ。今となっては、 彼らのやっていたのは何だったのか、と思っているのは私だけではないと思うが、故人へは皆あからさまに 言わない。)やスゥイングしない音を聴かされるのに嫌気がさし、やがてジャズ喫茶から足が遠のいた。
  ごく少数の演奏を除いて、1954年から1962年収録の曲にしか針を落とす気にならない私のモダンジャズ、 というよりすべての音楽に対する評価は、今もって変わっていない。確かに誘惑されそうな浮気心をくすぐる、スゥイング・ロック・ボサノバ、 果てはフュージョン、ショパンまであるが、古典落語のごとく(志ん生の火焔太鼓に並べて)マイルスとモンク (モンクは素直にスゥイングしないので嫌いだが唯一、マイルスが自分のパートが終わると気に入らないモンクのソロにそっぽを向いて 次のリフまで引っ込んだというこのセッションのモンクは魅力的でおもしろい)のバグズグルーブ、特にテイク1(いわゆる孤島に持って行く 一枚のディスクといった格付けで選ばれることも多い)辺りにとどめをさすか。
 これ等と他を聴き較べると何れも、一週間と空けずに同ナンバー・同テイクの重聴(てな言葉はないか)には耐えられない、 いわばアルコールのつまみ・食欲不振の際のお新香の味でしかないと思い知らされ、毎度'54〜'62に戻っている私のジャズノートである。
西日本新聞 2018.11. 1長いお別れ(P.マーロゥーに云わせると、さよならを言うのは“暫くのあいだ死ぬことだ”ということになる)

− 荒牧 千e Aramaki Kazuhide −
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