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  私見と書いたが、実のところこの本を読んだことはない。 ジーナ・ロロブリジーダ、ショーン・コネリーの映画でストーリーを知り、多分上記「推理日記」でここに書こうとすることを知った、というのが正確なところである。
  ウェヴ上にある書・映画評によると、 原作・脚本には主として登場人物の性格に関して微妙な違いがあるようだが、以下に書くプロットの「落ち」の部分には関係ないと思われる(実は、原作・映画で決着は違っているのだが)。
  ストーリーは大略次のとおりである。
  身寄りの全くないハイミスの看護婦が新聞広告の募集により、ある高齢な富豪の介護人となり、親身な世話を続けるうち、やがて望まれて妻となることに。
 結婚に際して富豪の秘書は身分の不釣り合いを避けるため、看護婦と養子縁組をした上で自分の娘として富豪と娶せることとし、自家用の船上で船長の主祭により式は執り行われる。ところが、婚姻届が提出されないうちに船上で富豪が死亡する事態となる。 もとより看護婦にも、高齢の夫の死後その財産を相続できるという打算はあった。
 正式に配偶者とはなっていない(婚姻届が未受理)時期に、夫に死なれたということになると、この目論見は正に画に描いた餅に過ぎない。ここで秘書に勧められるまま、夫の死亡時刻を遅らせんと画策することとなり、下船時には病人を装った富豪を車椅子に乗せ他人眼を繕う。しかし、富豪の死が病死ではなく毒殺であることが判明、物的証拠はないまま、 画策行動の事実等の状況証拠により看護婦が罪に問われることになる。
 看護婦に不利な状況証拠が揃うのには訳があった。
  富豪の毒殺は秘書によるものであり、両者の結婚すら秘書により企まれたものであった。 そして看護婦との養子縁組こそがその企みの総仕上げだったのだ。
遺産相続においては、その相続に関して罪を犯した相続人に権利はなくなる。
  この場合、夫を毒殺したとされた看護婦は相続権を失い、看護婦の財産の相続権を持つ唯一の人間・秘書が富豪の全ての財産を企み通りに略取することに成功する、というエンディングとなっている。  
(蛇足ながら、「わらの女」というタイトルだが、原題に「わら」という言葉が使われているのだろうか。 「藁にも縋る」という日本の諺から連想すると、不利な状況証拠の中、藁にも縋る思いで無実を立証する手だてを探る看護婦の心情から、 訳者がつけた邦題のように思えて仕方がない。← ところが、原題はまさにそのもの、Woman of Straw だった)
 だがこの話、登場人物の性格描写もなく上のようにごく客観的にプロットを示されると、原作を読み、映画を見ての感情移入等に惑わされることがなくなり、全体の構成におかしな部分のあるのがはっきりと見えてくるのではなかろうか。
 即ち、養父である秘書が遺産を相続できるのは富豪からではない、娘である看護婦からであり、その看護婦は罪を犯したことにより相続権を失った結果遺産を得てないわけであるから、養父・秘書へ遺産が行くことはない。
 ということでこの小説、プロットに決定的なミスがありながら多大な支持を得てもいるのは、その破綻を補っても剰りある妙なるストーリーテリングにあるのだろう。
  なお、これほどの矛盾はないものの、推理作家協会賞(短編)を受けた、戸板康二の「グリーン車の子供」も京都(大阪?)から東京へ行くのになぜ「ひかり」ではなく 「こだま」に乗ったのか(当時「のぞみ」は未だなかった。プロット上、横浜だかに停車する必要があって「こだま」が選ばれていたのではなかったか)、その必然性のなさが、ある意味瑕疵として語られたことがあると記憶する(佐野洋を含めた座談として)。

− 荒牧 千e Aramaki Kazuhide −
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