毎日新聞 1999. 1.21

↓上記のテキスト

 長野県飯田市内で昨年12月に 開かれた落語家、立川談志さん(当時63)の独演会を聴きに来ていた男性会社役員(当時63)が居眠りしたところ、 主催者側から退席を求められた。このため会社役員は「落語を聞く権利を侵害された」などとして、主催した落語愛好会メンバーの飲食店主(当時46)を相手取り、10万円の損害賠償を求める少額訴訟を20日までに、飯田簡裁に起こした。

  訴状や主催者側の説明によると、独演会は同市の伊賀良公民館で昨年12月17日午後7時ごろから始まり、当日は約260人の聴衆で満員だった。会社役員は妻と2人で6000円の券を買って入った。会場のほぼ中央に座ったが間もなく居眠りを始めたため、談志さんは小噺(こばなし)をしながら「寝ている客がいるねえ、きょうは」などと何度も起こそうとしたが、 「やってられないよ」と控室に戻ってしまい、途中で高座が中断してしまった。
  中断後、会社役員に主催者側が注意したところ、会社役員が「居眠りのどこが悪い。金を払ったんだからいいだろう」と主張したため、主催者側は落語会を再開できないと判断、「そんな考えをする客はお客として扱えない。金は返すから帰ってくれ」と 退場させたという。
 主催者側によると、談志さんは寄席の席で観客のマナーの悪さから、高座を中断するケースが少なくない。同日再び高座に戻った。談志さんは「落語を軽く流すこともできるけど、それでは他のお客に申し訳ない」と説明、 いつも以上の熱演を見せたという。
 
談志さんは被告の飲食店主にたいして「面白いことだね。頑張って」とエールを送っているという。


 いまどき談志の評価

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小ゑんへの帰趨或いは収斂    −私見−

  噺家(はなしか)殺すにゃ刃物はいらぬ、欠伸(あくび)一つで頓死する、とあるように、寝られたらまさに即死、談志は殺されたのであるが、それに対する報復処置の仕方(談志本人だけではなくここでは、 主催者側・飲食店主=被告が成り行き上、責任を持って原告を退場させるという処分を行った)が問題になっているわけである。
 先ずこの話が、公民館の独演会で起こったことというのが問題であり、落語というものは、寄席か噺(はなし)を聴きなれた愛好家とでもいう人を集めた高座ででもない限り、あまり馴染みのない人々にも落語に親しんでもらおうなどという (あえて云えば今回のような公民館での)会では「良い」、ということすなわち「おもしろい」口演が成立するはずがないのである。
 両方に馴染みのない人には解りづらいこととは思うが、落語とジャズは、演者のその日の調子によって天と地の差が生ずるものであるところに共通点があるというだけでは云い足りないほど同質の芸なのである。
 ついでに云えば、素人の落語が(どんなに面白い人が面白いことを喋っても)噺として成り立たないのは、落語の口調で話していないからである。噺家にはインタビューでも、役者として台詞を喋っても決まった一定の口調(リズム)がある。
 この口調なくして素(す)で噺をやられると、聴き手は妙に照れを感じるものである。
  これはドラマに出演した落語家の台詞を気をつけて聴いていると解るものであるが、それはまたジャズ独自のリズムにも通じる。
 (5代目)志ん生の「風呂敷」がいい、という人は本当に落語というものが解っていない。マイルス・ディヴィスの「枯葉」がいい、というのと同じである。これは正しくは、数少ない貴重な映像の一つとしてヴィデオ販売もされているあの高座の「風呂敷」がいい、 '58年3月9日、C・アダレイのリーダーアルバムで客演しているあの「枯葉」がいい、と言わなければならない。
 落語家もジャズプレイヤーも客にインスパイアされて極上の噺や演奏を造り出す。演者・演題、プレイヤー・曲目の組合せだけでは 善し悪しが決められないのは、クラシック音楽のそれと大きく違うところであろう。
 また、記事の書きようとして「(再開後は)いつも以上の熱演を見せた」とあるが、落語は熱演すれば面白いというものではない、さきの志ん生しかり。
 寄席と今回のような公民館での独演会とでは演者・客の態度も自ずから異なり、心構えも変わるべきであろう。少なくとも寄席ではよほど鼾(いびき)でも掻(か)いて周りに迷惑を掛けるようなことにでもならなければ、居眠り客を見てそれを肴(さかな)にクスグリを入れ、さらにはそこからもっと高い笑いへと 昇華させることができなければ、というより、この手の扱いは類型化したもので、誰でも数種類は自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとして、落ち着いて対処することぐらいたとえ前座(ぜんざ)であれ朝飯前のこととしておかなければ)噺家としては失格である。
  そして、自分の芸の拙さを反省するか、この人よほど疲れてるんだと自分を納得させるかして諦めなければならないのが芸人である。
 その志ん生にいたっては酒を呑んで高座をつとめることたびたび、果ては高座で寝てしまった、起こそうとする客に他の客が「いいじゃないか、折角だから寝かしといてやれ」という話もある。
 失礼ながら名前を忘れたが新宿末廣亭で、売店からコーラを買って席に戻った私に「旦那、コーラですか、昔は『どうだい、飲まないか』って芸人にもくれたものなんだが」と高座の上から声をかけた漫談師、「お客さん、聴いてるのものどが渇くもんでしょって、 芸人が客に振る舞ったもんじゃなかったの」と返したくとも、本物の江戸弁、落語口調はできない(聴く人が照れるような素の話し方しかできない)悲しさから、大袈裟に手を叩くしかなかったが、このようなやりとりも寄席でこそ成立し、 公民館の独演会などでは思いもよらない現象に映るであろう。
  なんといっても寄席においては粋(いき)が信条であり、洒落っけのない不粋(ぶすい)はもっとも嫌われるのである。談志は、真打(しんうち)昇進制度に不満を表し、落語協会脱退・立川流家元となり(そのため寄席には出られず)、このような形の高座が平常であり、 もはや本人も自分は噺家とは思っていないのではないか。
  学歴コンプレックス、客を怒り、客と喧嘩することをスタンスとしているかのような言動を見るにつけ、そう思える。
  そうであれば、落語という分野を前提として論じているこの文全体が無意味なものになってしまうので、そこまで詮索するのは止しにして 話を進めることとする)、タケシ、高田文夫等を弟子とし、一時は女物を演(や)らないよう身を律するために髭を生やしたりと、 反体制標榜の裏で議員に身を置くことさえ許して、自分を奔放に見せてきた自己顕示欲の固まりである。
 記事が100%正しいとして(前に原爆の語り部(かたりべ)の話しに騒ぎ、果ては飴を投げつけた修学旅行生という事件・記事があったが、殆どそれと同じ態度でこの記事が書かれていると思うので)、原告は「居眠りのどこが悪い。 金を払ったんだからいいだろう」と主張していながら、「落語を聞く(=記事による、本来は、聴く、であろう)権利を侵害された」と訴訟を起こすのは、あんたそりゃ違うんじゃないの、ということになろう。
 公民館の独演会でなく、寄席であれば金を払って入った客は 眠る権利も買ったことになる。まさに上の言葉は正論であるが。
 判断の基を記事以外に求めるのは本来ルール違反であろうが、見てしまったものはしょうがない。ナガラ見のテレビで原告・ 被告間で、返金を言いだしたのがどちらかさえも対立していて定かではなく、 原告の落語に対する知識・理解の程度にも疑問を感じるとともに、「この高座を楽しみにしていた(新聞記事中、満員の聴衆の中、原告はほぼ中央に座ったとあるから事実に近かろう)、それを金を返すから帰れとつまみ出された」と話していたことに奇異な感を抱いた。
   いうまでもなく、それほど楽しみにしていたのなら(それでも睡魔に襲われることはあり得る、嫌いなジャンルの音楽は耳障りとなりイライラと眠れないが好みのそれは耳に心地良く眠りを誘う、似たような経験は誰にでもあると思うが、 それとも期待に反して(期待していたレヴェルを下回って)面白くなかったから寝たとしても不思議ではないが、それでも)、一度起こされれば、思い直す=起きて聴くか、自分から退場する(この行為は実は非常に難しいが、 原告の上の言葉からは談志のファンであるとはいわないまでも、少なくとも 好きであろうことが言外に窺えるが、「面白くないから寝た、もう聴きたくない」とタンカを切って退場すればカッコ良かったかもしれない)、普通この二つのうちどちらかを選ぶのが常識であろう。
 ここでまた少し気になったのが、一緒に来ていたはずの妻の態度である。記事中に、2人で6,000円の券を買って入った、と記されている妻の行動に関しては一行も触れてない。普通の夫妻であれば、一緒に落語を聞きに来て夫が居眠りをすれば、 演者より先に起こすのが妻の行動であろう。それでも起きなければ外へ連れ出すのがこれまた常識であろう。それとも、連れ出す行為に抵抗し、 周りの耳目をさらに引きつけることになるやもしれぬ夫の所作を恐れたのか。
 いずれにしても、口演が一旦中断した際の原告の態度、
再開される経緯の詳細提示が不十分である。
  が、ここに妻の行動が書かれていないからこそ、原告も周囲、特に妻に対して自分の恥ずかしい行為(居眠りをして連れ出されるという) を湖塗するために訴訟を起こしたというこれまた自己顕示欲の強い人間であろう。
 鼾を掻いたり隣人にもたれかかる等の迷惑 (子供が泣くというような行為に等しい迷惑)は及ぼしていないということを前提にしているのだが、この辺りの記述もない。
 記事の最後に、「面白いことだね。頑張って」とエールを送っているという。とあったが、最初、読み流した際に、エールを送っている相手を被告の飲食店主ではなく、原告(居眠りをして自分を怒らせた張本人)へであると勘違いをした。
  これは最初の言葉「おもしろいことだね」で世間を斜(はす)に見る、天の邪鬼(あまのじゃく)の一端を窺わせ、さらに、 も一つ自分に敵対している者に対してもこれを茶化して洒落のめしてしまおうというのが談志の真骨頂だという、 確かな人物像が頭の中にあったからである。少額とはいえ、損害賠償という金が絡めば、 常識的に筋を通さざるを得ないというところか。
 起こされて、居眠りすることなく聴こうとするのにも拘わらず、退場を強要したのであれば(金を返そうと返すまいと) 被告に非があり、居眠りを続けながら会場に居座ることを求めたとすれば原告の敗訴ということになるであろう。
  純粋に、落語の口演で居眠りをするのが許されるか否かという問題のみであれば、議論の価値も見出せるかもしれないが、今回の衝突はどうもそれだけの単純なものではなさそうで (主催者の店主と会社役員との個人関係の有無など)、判断の基となる事実関係の資料不足も否めず不明瞭さを残した。
 また、ある程度演芸に対する知識を持つ、談志嫌いの評論家然とした人にこの訴訟につき論を求めれば、「居眠りをさせるのは談志の芸の無さだ」と言う言葉以外の返答を知らないが、これはしかし少々常識論に過ぎ、 寄席の本質についての認識が不足しているとしか思えない。上に記した寄席の洒落・粋と共に本当に良いものは時として眠りを誘うという感情の機微との本質に迫ってないと考えるからである。
 個人的に今の談志は嫌いであるので(むしろ、小ゑんの頃、落語協会在籍中の談志はおもしろく、テープ等も保存してあるのだが)、それが前提となった、ある意味では偏った内容のものとなった。

('1999. 2.11 荒牧 啓介)

判決内容を掲載した新聞(1999. 4.22)



− 荒牧 千e Aramaki Kazuhide −
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