− 荒牧 千e Aramaki Kazuhide −
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クラブ週現(週刊現代 2004.4.24) サラリーマンの放課後 第16回 日本の笑いに革命を起こした! 漫才ブームを駆けた芸人たち 日本中が笑っていた。どのチャンネルに合せても、テレビに漫才師が映っている時代だった。 しかしテレビが創り出した新しい笑いの文化は、消費され尽くすのもあっという間だった・・・。 '80年代初頭、あの怒涛のブームはなんだったのか。知らぬ間に消えていった芸人も星の数ほど。見るものは気楽でも、やってるほうは命がけの戦いだったのだ。 「漫才ブームというのは、西の紳助と東のたけしによる、新しい笑いを追及するセメント(真剣)勝負だったんだ。 ツービート(ビートたけし・きよし)も紳助・竜介も、視聴者の周囲にある日常を独自の切り口でネタにしていた。紳竜の高校や不良の話なんかがまさにそれ。互いにどっちが優れているか、アンテナの張り方はどちらが上かという、表には出ない発想の脳ミソ勝負を演じていたんだな」 こう語るのは、放送作家で自身も漫才ブームを支える一人だった高田文夫氏だ。 漫才ブームに火をつけたのは、'79年から連続して演芸企画を放送した『花王名人劇場』(フジテレビ系)だ。 |
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東阪企画会長で、当時プロデューサーだった澤田隆治氏が語る。 「番組の企画を出せといわれた時点で、花王名人劇場というタイトルはすでに決っていた。でも、名人にこだわっていては視聴率が取れない。そこで、視聴率を取れる芸人こそが名人だという趣旨で企画書を作ったんです。 そこからパワーのある新人探しです。一緒に番組を作るプロデューサーには山本益博を起用。今は料理評論家で有名な彼もその頃は若い芸能評論家で、テレビはまったくの素人。ただ彼は、『大御所の円生、正蔵、小さんよりも志ん朝、談志、円楽といった若手がピタッとくる。なかでも円鏡が面白い』と言う。 そのセンスに魅かれて起用したんだけど、各局の演芸プロデューサー仲間から、『素人を使うなんて失礼だ』と怒られた。あの番組はまさに革命でしたね」 素人と戦い抜いたB&Bの芸人根性 '80年1月20日、花王名人劇場は『激突! 漫才新幹線』を放映、漫才ブームの発火点となった。実力派だがまだマイナーだったB&B(島田洋七・洋八)が、これで一気にブレイク。「3秒に1度は笑わせる」という速射砲ギャグが全国区になったのだ。 さらに同年4月、ブームに拍車をかける新番組がスタートした。フジテレビ系の『THE MANZAI』だ。当時チーフディレクターだった佐藤義和氏が振り返る。 |
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「狙った年齢層は、ある程度、知的な話題にもついてこれる18歳から22歳の大学生。スタジオの客は7対3で女性を多くしセットも横文字のTHE MANZAIにして、六本木あたりの洒落たパブかなんかでやってるみたいな感じにしました。皆が脱演芸を目指したんです」 出演者は若手に絞った。東京の星セント・ルイス、ツービート、大阪から東京に攻め込んできたB&B、吉本興業の紳助・竜介、ザ・ぼんちらがたちまち人気者になっていったが、なかでも先頭を突っ走ったのがB&Bだ。 B&Bが吉本から戸崎事務所に移籍したのは'79年9月。一発勝負を賭けての上京が成功したわけだが、背景にはすさまじいまでの芸人根性とバイタリティがあった。 '80年4月には『THE MANZAI』と同時に日本テレビ系『お笑いスター誕生!!』もスタートしている。プロアマ問わずのお笑い勝ち抜き戦で、コロッケやイッセー尾形などを輩出した伝説の番組だが、B&Bはなんと素人やマイナー芸人にまじって果敢にチャレンジしたのである。 ツービート、紳竜は15対0のコンビ 出演交渉にあたった日企社長の赤尾健一氏が語る。 「普通は断られるんですよ。実際事務所側は、『お前等はもうスターなんだ。出る必要はない。素人に負けたらどうするんだ』と猛反対した。 でも島田洋七が『貰ったチャンスだと思ってやってみます』と引受けてくれた。彼等の漫才には圧倒されましたね。まさに笑いの”秒殺”です。これは放っておいても10週勝ち抜くと思っていたら、みごと勝ち抜いた」 |
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一つのネタがモノになるまで、普通で3ヵ月はかかるという。その新ネタを10週連続でテレビにのせる。しかも、素人に負けるかもしれないという大変なリスクも負う。事務所が強固に反対したのも当然だ。それでも洋七は、「プロはこんなに面白いんやということを見せつけてやったらええやないの」と言って事務所社長を説得した。新しいお笑いの籏手としての自負がみえる。 B&Bの先導で、漫才は空前のブームに突入した。B&Bを追走し、じきに追い抜いたのはツービートだ。ブーム以前、彼らは何度も煮え湯を飲まされていた。場所は若手漫才師の登竜門として知られるNHKの『新人漫才コンクール』。 ツービートは'76年から3年連続で挑戦した。会場のウケは間違いなく彼らがダントツ。だが、ネタに品がないという理由で優勝を逃し続けていた。 捨てる神あれば拾う神あり。そんなツービートに目をつけ、東京・高田馬場で『マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ』なるライブを仕掛けたのが漫画家の高信太郎氏。'78年11月のことだ。 「ネタを全部つなげて2時間ぶっ通しでやった。テレビじゃないので『気をつけろ、ブスが痴漢を待っている』などの過激なネタを遠慮なく喋るもんだから、会場はバカウケ。テレビ関係者や編集者など業界人の注目を集めるようになったんです」 漫才ブームの担い手たちの中でも、やはりたけしと紳助の才能は傑出していた。 「あの頃の漫才コンビは一人の天才と一人の普通人の組合せで、天才と凡人の比重は大体6対4くらい。でも、ツー |
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ビートと紳助・竜介は15対0ぐらいだった(笑)。相方は宝くじを拾ったようなもんだよ。でも、ブームだからと浮かれていたわけじゃない。真剣勝負だから、本番前はみんな異常に神経質になっていて、たけしなんかも本番前は楽屋から出ようとしなかった。他のコンビがウケてるのを見るのは嫌だって言うんだ」(前出高田氏) 『THE MANZAI』に出演した星セント・ルイスが、前の漫才師の笑いで客がかきまわされるといって、翌日、観客を入れ替えて別撮りしたというエピソードもある。わがままといえばわがままだが、それほどまでにピリピリとした真剣勝負が裏では行われていたのだ。 高田氏から存在の比重が0だと言われたビートきよしだが、彼にも自負はある。「僕としても、落とし方を3パターンぐらい工夫していたんだよ。いまのテレビはちゃんとした笑がとれる人を使わない。その場その場でウケるだけの芸人がお笑いだと称してやっている。死んでも芸人をやるという気概もないんだよ」 紳助の相方の竜助(竜介から改名)は悲惨だ。コンビ解消後、事業の失敗などで1億2000万円の負債を抱えて自己破産。現在に至っては、大阪の歓楽街・十三で無料風俗案内所の係員をやっている。その竜助が語る。 「紳助の漫才は王道。ウケるということを徹底的に考えるタイプで、シナリオを全部作り、アドリブ的なもんを嫌うんや。ピーク時の年収? 7000万円くらいちゃうかな。落合が初めて1億円プレイヤーになったと騒いでいた時代やから、多かったんかな。いま? 聞かんとってぇな」 |
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破天荒な天才横山やすし '80年に火がついた漫才ブームは翌年にピークを迎え、早くも汐が引き始める。あきられ始めたB&Bに代わってトップに躍り出たザ・ぼんちが、レコード『恋のぼんちシート』で大ヒットを飛ばしたのもこの年。7月には澤田隆治氏プロデュースでザ・ぼんちの武道館コンサート(写真上)まで開かれたが、この芸人としては前代未聞のライブが漫才ブームの最後の夏になった。 「ブームはわずか2年と短かったけど、でもそれ以前と以後では紀元前と紀元後って感じだね。お笑いの主戦場が演芸場や寄席からテレビに移り、笑が老人のものから若者のものへと変質していった。ブームの功績は、たけしと紳助という二人の天才を世に送り出したことだ。消えていった人については、正直、どうでもいい(笑)」(前出・高田氏) いま膨大な数の若手お笑いタレントがブラウン管で飛び跳ねている。しかし、ブームの頃の芸人と彼らとはまるで違うという声も多い。 「当時の漫才師はキャバレーなりストリップなりで下積みを積んできた。だから、笑が目的で来たわけじゃない客でも笑わせるだけの底力があった。でもいまの『お笑い』は『客に笑われる』だけ。笑われるのは簡単だから進歩がない」(前出・高氏) 最後に触れておきたい人物がいる。たけしや紳助の上の世代にいた、さらに破天荒な天才・横山やすしである。 |
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「中学2年生の時にラジオのお笑いコンテストの予選に応募してきたが、その時点ですでに天才少年だった。中学生のやすしが、おっさんの漫才コンビに『こうすればいいんちゃうか』と教えていたんだから」(前出・澤田氏) 20年以上経ったいまもテレビの主役を張るたけしや紳助もいれば、消えていった芸人も多い。ここでは挙げ切れなかった漫才ブームの立役者を左にまとめた。彼らお笑い芸人たちが命がけでつくったのが、笑いの革命・漫才ブームだったのだ。 |
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