小益が桂文楽を襲名した際厳しい非難を浴び、果ては”セコ文楽”と呼ばれるなどの仕打ちとは正反対の扱いである。私自身は、旧来のこぶ平しか知らず、まともな落語を聴いた記憶もあやふやで、
ましてや、3年間に50席覚えて練った、今日から正蔵ですよといわれても俄かにはこぶ平を信用はできない。
ニュース番組か何かで僅かに挿入された落ちの部分、「おいらは鎹かい?どおりでさっきおいらの頭を金槌で叩こうとした」(毎日新聞の写真はまさにその部分の所作だと思うが)の映像と音声だけが、
私が知り得る正統・古典落語に精進したと喧伝される今日のこぶ平の有りようなので、或いは違っているのかもしれないが、そこから伝わってきたのは”面白さ”ではなく、”懸命さ”でしかなかった。 |
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もちろん一所懸命は必要条件であろうが、その部分が表面に出てきてはそこで噺じゃなくなる。 落語と言うものは、演者がどんなに一所懸命になろうとも、その”素”の部分が表面に出ると”粋”でなくなる。臭さを狙って懸命さをデフォルメするのがコントなら、その逆の”粋”が落語・噺であろう。
毎日新聞の記事中、同席の人の指摘、”深みに欠ける”というのも、もちろん年齢的なもの、経験などに対する当然の不満ととれるが、”素”の部分についての聴く側のある種の息苦しさ・照れなどについてこの言葉が出てきたのではないか。
ここは、談志がどう言っているかが最大の関心事とも言える(海老名家(三平・こぶ平)は名門である・高田文夫も褒めている、そこで談志も評価するのか)。 |